ネット世代の雑評論

主にネット上に散らばる各々の事象についての紹介、及び評論

Wikipedia探訪「トリストラム・シャンディ」

トリストラム・シャンディ - Wikipedia


トリストラム・シャンディ、原題「The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman」は18世紀半ばにイギリスで出版された小説である。全9巻。

18世紀はヨーロッパにおける近代小説の勃興期に当たるらしい。
しかしてそのころの作品であるのにも拘らずこの作品ほどに無茶苦茶をしている作品も無い。

引用
一見、内容は荒唐無稽、奇抜そのものであり、例えば一貫したストーリーは欠如していて、牧師の死を悼む真っ黒に塗り潰されたページ、読者の想像のままに描いてほしいと用意された白紙のページ、タイトルだけが記された章、自分の思考を表す marble pages と呼ばれる墨流し絵のようなページ等、読者をからかうがごとき意匠に満ちている。アスタリスクやダッシュの多用、さらに、この作品の話の進行状況を曲線で表す等、まさしく奇抜な形態をほしいままにしている。

前衛芸術かな?
タイトルだけが記された章というのは源氏物語の雲隠を想起させるがアレもまた中々ではある。

一応、ドン・キホーテなどの作品から影響を受けての発展であり、全ての掟を破ることでルールの存在を示すという典型的小説だという批評もあれど、ともかくこの時期において小説の一種の極限に達したのは間違いあるまい。


内容は主人公トリストラム・シャンディの自伝ということになっているが、完璧な自伝を書こうとするあまりまず精子の段階から書こうとする辺り話がこじれていく。
全9巻のうち3巻までを誕生日までに充て、その後は成長を見守る父(完璧な育児計画を持つ)ウォルターとその弟のトウビー(完璧主義の包囲戦マニア)の話にシフトしていく。
その後、自伝を書く現代のトリストラム=作者の話になっていき、作者の死によって物語は未完に終わる。


話の筋から狂っており表現方法も狂っている。しかして典型的な小説でありうる。
別に技法とかなんだとかそういうものは便宜のためであって何も必須のものではないという事をこの小説は指し示している。
たまに最近のライトノベルの類で無茶苦茶な表現を用いたものが取り上げられるが、別に何を書いたっていいんだということをこの18世紀の小説は雄弁に語っている。
これもまた一つの奇書であり、小説の礎を作る巨人の一人であるのだ。
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  1. 2020/04/02(木) 06:13:22|
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作者というキャラクター、あるいは作品の二重の枠

世の中は新型コロナウイルスがどうとか100日ワニがどうとか東方酔蝶華の美宵ちゃんがヤバイとかどうとか任天堂がゲリラニンダイ戦法を使ってきたとかどうとか、様々な話題で賑わっているがそれらとはほぼほぼ関係の無い話を書いていく。

いやまあ、100日で死ぬワニの炎上騒ぎから派生して思い浮かんだテーマなんだけどね。創作論の一種として。
ワニ自体は下手なことしたなあって感想ぐらいしかない。いや掘り下げれば炎上の複層的な構造とか話せるけどもう旬を過ぎた話題だろう。


で、まあいいや。ワニは作品としてはともかく商品とする際に失敗した、という具合な訳だが、創作の内側外側(作品と商品)という問題から作者と作品の関係に視点が移った。

まあ、実際にDr.スランプなんかに作者である鳥山明が登場したりするネタなんかも多いが、基本的に創作作品自体、それそのもの本体に作者自体の何かは関係がない。
作者がフェミニストだろうがそれが作った創作作品が女性の権利を主張するものとは限らない。
作者が殺人狂だろうが作品自体の価値が損なわれることは無い。
作者がAIだったとしても作品の面白さには変わりはない。
作者がいなくても知らなくても創作作品は成立し得る。

しかし商品としてはどうだろうか?それを買う人の心理としては?
作者がフェミニストならば読者はその作品にその思想を見出そうとする。
作者が殺人狂ならば、悪人の手に印税を落としたくないという人もいるだろうし、その心理を知りたいという物好きもいるだろう。
作者がAIならば、同じことを描いていたとしても心理描写についてケチがつくだろうし、AIの技術的進歩を知りたいという好奇心が商品的価値を上げるかもしれない。
そういう意味では作者は商品としての創作に関わりを持つ。

どういう経緯で書かれた小説・漫画・アニメ・ゲーム……なのか、どういう人間が作っているのか。この作品は作者にとってどういうものなのか。そういう情報ばかり消費者は気にする。あるいは作品の内容よりもとっかかりとしては大きいのかもしれない。
で、あるからして、創作において作者というキャラクターを演出する、あるいは作品自体を含むメタ作品、物語を用意する、語るということも作品を商品として売っていく、少なくとも消費者層を増やすためには重要なことなのかもしれない。


これを意識的・無意識的問わずやっている創作者は案外いる。
極めて意識的かつ計算してやっていると思われるのはニンジャスレイヤーの執筆陣だろうか。外国人風のペンネームだけでなくそのキャラまで詳細に作り上げ、ツイッターでの運営アナウンスの類からしてその作品が醸し出す狂気を反映したものとなっている。これにより作品内外通じてニンジャスレイヤーという作品・商品は胡乱な雰囲気を醸し出し、独自のファン層を獲得するに至った。

作者のキャラクター化でいうと東方projectの神主ことZUNさんも意識的なキャラ造りをしている。
インタビューなどでよく写真をみると独特の帽子に眼鏡、そしてビールジョッキという姿が写っている。少なくとも帽子は意識してキャラ付けしているといつかのインタビューで話していた。
SNSの類や作品テーマ的にも炎上するそれを避け曖昧で奇妙な言及を残す。作品と共に作品外にも不可思議さをもっていっているというか、そういう物語性も感じられる。

上でDr.スランプでの作者鳥山明登場の例もあげたが、そういう作者登場演出も読者の作者感を規定させる一つの手ではある。
事実、鳥山明先生はギャグ漫画的な明るく温厚なイメージがついている。

それほど強いキャラ付けでないにしろ、強い編集部のある連載誌ならば作者がSNSで炎上しないようにする指導ぐらいしているだろう。変に政治ネタやら差別ネタやらで炎上しても商品としていいことがない。連載雑誌ならば雑誌自体が迷惑を被る。炎上マーケティングという手法も無くはないが大きな企業がやる事ではない。
逆にテコンダー朴の作者なんかはほぼほぼ作中同様のやべーネタをツイッターでも繰り返して作品の世界を現実に投影している。まあスプラトゥーンとかゲームやってたりもするが。

意識しないしろこういうキャラクター付けというのは強い。太宰治なんかもその狂騒の人生があって興味を持ち買う人も少なくないが太宰が演出していたとも思えん。いやどうなんかね?



ともかく、作品自体をイイものにしようという努力も重要だが、それを世に出したいのならば創作者も含めた作品外部まで含めた演出・物語も必要だということ。
それが全て揃って商品となる、訳だがまあ一人の創作者が全てできるか、というと難しいか?だからこそそこはプロに頼るべきなのか?いうて漫画雑誌の編集とかみても十二分な仕事が出来てるかは謎があるが。

なんにせよ、ツイッターで政治とか燃えやすいネタを延々と書き連ねることは創作業にとってあまりいいことではないという結論である。
いやまあ作品自体がそういう作品なら逆にアリかもしれんが……
声優が今やアイドルであるように、作者は今やキャラクターなのだ。

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  1. 2020/03/27(金) 00:59:40|
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世界中の数字の色々

数字 - Wikipedia

数字。この言葉自体を数そのものだと誤認する人はたまにいるが数という概念を字として記したものである。
必ずしも数という概念についての人間の考え方は一定ではなかったようで、古代から様々な書き方が提案された。
またそれぞれの文字から派生した数字というモノもある。
今回はそういうのを見ていこうと思う。

現在もっとも一般的に使われる数字はいわゆるアラビア数字だろう。算用数字という場合もあるか。
123という奴である。
アラビア数字というだけあってアラビア、中東付近で作られたのかなと思いがちだが、本来はインド・アラビア数字というべきそれであって源流はインドにある。0の概念を作り出したのがインド人というのはよく聞く話であろう。
サンスクリットやヒンディー語などに使われるデーヴァナーガリーに使われるデーヴァナーガリー数字(6世紀ごろに成立)が0を含んだアラビア数字の直接の祖先である。インドにはもっと前にブラーフミー数字もあったがそれは0も無く違ったものと見做せる。
もっとも、現代のアラビア数字とデーヴァナーガリー数字はそれなりに形も違う。その簡便な記法から西洋以外にも南方や東方へと世界中に広がったがそこでもローカルな変化がみられる。
アラビア語では右から左へ文字を書いていく訳だがインドから拝借した数字だけは左から右へと書く。アラビア圏のワードプロセッサやタイプライターはそのために逆送り機能がある。
現在の一般的なアラビア数字はマグリブ、北アフリカ北西部で使われるアラビア語に付随した形であろう。イスラム教がヒスパニア、現在のスペインに侵攻した際に伝達されたようだ。10世紀のことである。


日本人が次に目にする数字は漢数字だろう。漢字に付随する数字である。
一二三という奴である。亖で四だったり異体字も多い。有名なのは混同や改竄を避けるための大字か。壱弐参という奴ね。
漢字というのはそれぞれ成り立ちがよくわかってたりするが今回は避ける。四とか五とかは仮借で音が同じ漢字を持ってきてたりとか。
関連するのでは算木と呼ばれる計算用具に由来する算木数字や、そこから発展した中国蘇州の蘇州号碼などがある。蘇州号碼は今でも中国やマカオの市場での価格表示やミニバスの運賃表示で見られるとか。


他にたまに見るのはローマ数字か。ラテン文字を使った表記でラテン語に付随する数字ということになろう。
I、II、IIIという奴である。
順序や番号、文章の脚注番号に使ったりする。他では時計の文字盤表記なんかで使われたりするか。映画やゲームの制作年表記に使う場合も。
一般的な表記では1~3999まで表せる。それ以上の表記方法はあまり使われないが色々やり方はある。0は存在しない。
はっきりいってアラビア数字と比べると扱いにくい性質が多い。であればこそ西洋世界でも取って代わられている訳だが。


ギリシア数字というものもある。もっともこれは数字というか記数法でありギリシア文字をそれぞれの数字に当てたものである。
αが1、βが2、γが3…… となる。これに最後に数字であることを示すためにアポストロフィー(’)を付ける。
こうした記数法は現在でも見られ、ヘブライ数字やキリル数字、なんならアラビア文字記数法というものもある。
現在では大抵アラビア数字に取って代わられているが聖書の章節番号などを表すために使われたりもする。


古代のもので面白いものも多い。
一つはバビロニア数字。楔形文字に付随する数字という事になる。
60進法による位取り記数法が紀元前2000年に確立された。これにより天文学が発達したとか。

マヤ数字はマヤ絵文字に付随する数字であり、5進法的であり20進法的でもある。マヤは暦で有名だがマヤ数字で書かれている訳だ。

インカのキープはロープの結び目で数を表現した。言語情報が含まれている場合もあり、他の文明とやり方が全然違うのが興味深い。


さて、インド、中国、ローマ、ギリシャ、メソポタミア、マヤ、インカと古代文明それぞれに数字の起源があるようにも思える訳だが、じゃあエジプトはどうなのか?
ある。ヒエログリフの数字
とりあえず一、十、百、千、万、十万、百万に対応する文字がある。2~9はない。
それじゃあどうするのかというと9なら1の文字を9回書く訳だ。99なら10の文字を9回、1の文字を9回書く。後も同様で都合9999999まで書くことが出来る。シンプルで雑でエジプトだなあという感がある。
まあヒエラティックだのになるともうちょい改善されるようだが。分数表記はエジプト式分数とか言って結構独特である。



どれも同じ数を書くのに対し様々な方法が用いられており興味深い。
数という抽象的概念をどう捉えるか、人が苦戦して来た歴史を思わせるものである。




制作年表記にキープとかヒエログリフとか使おうというネタはやめておいた方が良いと思う。

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  1. 2020/03/13(金) 03:18:51|
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Wikipedia探訪「セネト」「タブラ」「すごろく」「バックギャモン」

セネト
タブラ
すごろく
バックギャモン
それぞれWikipediaより


科学が発達せざる古代から、人類は人の手に及ばぬ運命を計るために様々な事をした。

例えば占い。偶然が作りだす何かを読み取り運命を知ろうとする所業である。骨や甲羅を焼いてその罅から占う甲骨占いは政治を左右したし、手相人相占いで人の一生を知れると思い込んだ人も多い。星占い・占星術は星の動きの解明により天文学へ繋がった。
裁判もまた同じで、古代においては何かを証明するのに科学的捜査など出来るはずもなく神判の類に頼るほかなかった。
釣りもまた一つの運試しである。魚が釣れるか釣れないか。そりゃあ上手い下手はあるがしかして連れる時は釣れるし釣れないときは釣れない。その事実を持って吉兆を占う。そういう事も行われた。大漁旗がめでたいものとされるのはその名残といえよう。
そして賭博もまた一つの運試しである。

単純な立方体であるサイコロが転がって出る目は凡人には計りがたい。
賭博に勝つ者は神に愛された者として尊敬の対象になる。
やはりそれは賭博と言うものが一種の占いであったからに他ならない。
科学がそれなりに発達した現代においてさえ(どうせ胴元が勝つのに)ギャンブルが市民権を得たままであるのは、そういうふうに強力に文化に結びついているからだ、といえよう。



前置きはともかく、なんにせよ古代から賭博、ギャンブルの類はあった。

ギャンブルの始まりがいつになるのかは定かではないが、今知られている限り世界初のギャンブル・ボードゲームは紀元前3500年、先王朝時代のエジプトより始まる「セネト」だとされる。
セネトは一種の2人対戦すごろくゲームであり、10マス×3列を基本とする盤を2面ダイス代わりの色を塗った棒で数を決めてそれぞれ5つのコマを進めていき、始めに全てのコマをあがりまでもって行ければ勝ち、と言うルール、と推察されている。
あがりには死者の魂の復活などという宗教的な意味合いが為されていたりする。つまり難関を乗り越えて死後の復活を迎えよう、と言うフレーバーがあるわけだ。初期はただのすごろくだったらしいがともかくそれで人気に火が付いた、はいいがキリスト教やらイスラム教やらが入ってきてからはそのせいで廃れたという。

ともかくそんなセネトが帝政ローマ時代に東ローマ帝国に伝わり考案されたのがタブラであるとされる。
12マス3列(あるいは12マス2列)に改良されており中世ヨーロッパで広く執り行われた。

中近東ではそれがナルドになり、それが中国に伝わり雙陸、日本に伝わると雙六=双六(盤双六)となった。それが絵双六となっていくわけである。双六とは使用される2つのサイコロが共に6の目を出すこと、つまり最高の目を指している。

タブラが西洋で発達したものがバックギャモンである。19世紀以降になるとルーレットなどの賭博に押され衰微してたバックギャモン系ゲームだが、1920年、アメリカはニューヨークでダブリングキューブを含むルールが考案されそれが現代バックギャモンへと繋がっていく。ダブルを宣言すると相手は負けか掛け金2倍かを選ばなければならなくなる。この射幸性の高いルールが人気となった。


こういった双六系ゲームはモノポリーや人生ゲームにも繋がっている。中々に複雑で世界的。麻雀やトランプといったゲームも似たような複雑さがあった。双六の起源はエジプトで、トランプや麻雀の起源は中国(馬弔)、みたいな?他にも調べても面白いかも。将棋やチェスの起源はチャトランガでインド?
遊戯の歴史と言うのは他の文化に比べて文章的記録・史料が少なく歴史を追うのが難しい傾向にある。しかしだからと言って文化として上だ下だということはないし、むしろ難しいからこそ面白いというものもあろう。興味深い分野である。

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  1. 2020/02/29(土) 23:39:38|
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カードラゴニュートとかいう



カードラゴニュート。上のツイッターリンクの同人誌では、
まずドラゴンと人間が交わりドラゴニュート、半人半竜の竜人が産まれる。
で、ドラゴニュートが車とドラゴンカーセックスを執り行った際に出来た子供がカードラゴニュート、ということになるらしい。

中々にイカレているといえよう。
そらまあドラゴニュートぐらい種族多めのファンタジー世界ならざらにいるよ?
ドラゴンカーセックスもさ、まあそれをオカズにしている人自体は未だ希少にしてもそのインパクトから話としては知名度が高いよね。いや狂ってはいるんだけどね。
その延長線上にあるといえばあるんだけどさ、いやなに無機物と子供が出来ちゃってるのさ。しかもドラゴニュート経由してるからって少女にしちゃってさ。

竜と人間が1/4ずつ、車が1/2の生命体。車って生命か?
作者の天才性が冴え渡っていると言わざるを得ない。


とはいえ複雑なハイブリットというのはファンタジー設定において考慮せざるを得ないところ。

ハーフエルフというのはまあトールキンの指輪物語の時代からいる訳だけど、じゃあクォーターエルフもいるよねとかややこしいことを言い出す人は後を絶たない。そういう事を言いだすとややこしくなるから各創作者は色々設定をどうこうして話をまとめる。人間とエルフの比率が1:7だろうが57:7だろうが混じり物はハーフエルフとして呼ぶとか、ハーフエルフは不妊とする(ラバみたいなもんか)とか色々やりようはある。

他にもエルフとオークの合いの子はどうなるんだとかトレントとフェアリーはどうなんだとか無茶苦茶言い出す奴も多い。
そういう場合一方の種族しか産まれてこないみたいなのがセオリーではある。


とはいえなんでもかんでも混ざったのが出てくるのも面白い世界かも知れない。
そうなるとその世界の遠い未来にはあらゆる種族が混ざったよくわからん完璧種族が跋扈しているということになりそうだが。

現実の人種もこういう風に薄れていくと思いきや案外そうはいかないというか、あくまで現在進行中なのか。グローバリズムとはいうが全て混ぜて個を喪わせることが良いことなのか?まあ人種なんてぐちゃぐちゃあっても殺し合うだけだからまあいいんだがそれぞれ個別に発達した文化はどうなるのやら。

現実で言えばネアンデルタール人とか異人種との交配の話もあるよな。大昔はそういうのやってた形跡がDNAに残っているんだっけ。



現在地球では、ちょっと肌の色の違う人々はいるが基本知的種族は一種類である。多種類の知的種族による交配というのにどのような意味を持たせるのか。これもファンタジー創作者の腕なのやもしれない。

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  1. 2020/02/26(水) 23:51:19|
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